雷雨が少ないうえ、朝凪・夕凪によっておきる夏の蒸し暑さは当地方特のもの。 天正6年(1578)加古川評定の後、秀吉方の阿閇城は毛利・雑賀連合軍を撃退するほどの戦績を残した。 住吉大明神は、古くから海路を守る神として、航海・漁労関係者から厚い信仰をうけている。町内には6社ある。 東播磨地方の海岸は、万葉の昔から「森林広大にして翠色波にあらふ(播磨名所巡覧図絵)と書かれているように広く全国に知られていた。 延享5年(1748)4月、播磨灘沖を通った使節団と、二子村の見物船との間で、海上での交歓風景がくり広げられたことが記録に残っている。
本町出身のジョセフ彦(1837〜1897)が元治元年(1864年)木版で発行した我が国初の新聞と言われています。 ジョセフ彦は明治3年(1870)本荘の蓮花寺に両親と家族のために横文字の墓を建立した。 幕末、我が国の沿岸に黒船が接近するようになり、海岸防備のため姫路藩が飾磨津・福泊・荒井とともに作らせた。現望海公園。 県木「くすのき」はたくまし生命力をもつ楠のようにありたいと願い1966年県木とした。「のじぎく」11月ごろ花を咲かせる白や黄色の野生の菊。 「古宮千軒、お寺が四ケ寺、坊さん養う飯盛松」という謡が残されている。旧古宮村は戸数も多く、江戸時代には大きなムラの一つであった。