さしのぼる 加古の湊の夕汐に 松ばらこして 千鳥なくなり (新続古今和歌集)
古い時代からこの近辺の海岸が「響きの灘」といわれていたのは尾上の鐘が響き渡る所からつけられたとか。
「播磨風土記」によると、昔、景行天皇が求婚相手の印南別嬢がいる小島へ渡るためこの浜辺へ立ち寄られ、村人たちが献上する御食事(みあえ)をお召し上がりになったといわれる。それ以後このあたりは阿閇の村といわれるようになったそうな。 江戸時代、本町区域には東本庄村、西本庄村、宮北村、野添村、古宮村、大沢村、東中野村、経田村、古向村、宮西村、二子村の11の村があった。 秋祭りの神事におわたり(神幸式)と呼ばれる神社から御旅所までの行列がある。その先頭に立つのは天狗面をつけた猿田彦だ。 猿田彦悪魔を払い 知る人やソレサ お興しの先のほこ払い という歌が残されている。 西洋型帆船・速鳥丸に続いて姫路藩が秋元安民や漂流帰国人の本庄善次郎たちを中心にしてつくらせた大型船が神護丸。米・姫路木綿・塩などの江戸直送便として活躍した。
大中遺跡は、弥生時代中期から古墳時代中期にかけての代表的な遺跡。土器・鉄器・砥石などとともに鏡の破片も出土した。土器では蛸壺型土器が多く、古代人が蛸を食していたことがわかる。 稲日野も 行き過ぎがてに 思へれば 心恋しき 可古の島見ゆ (万葉集)本町を含むこのあたり一帯は万葉の時代から印南野と呼ばれ海上・陸路いずれからもその美しさが讃えられ多くの歌に詠まれてきた。
速鳥丸は、姫路藩校好古堂の国学教授であった秋元安民をチーフに、栄力丸で漂流した4人(清太郎・浅右衛門・喜代蔵・甚八)が主となって製造した2本マスト・450石積の船。神護丸と並んで明治初年まで播州・江戸間を往復し姫路藩の輸送力に大きく貢献した。