1900年(明治33)本荘川、阿閇川とよばれていた川が喜瀬川と命名された。全長4900m2級河川。 本町における漁業のうち、鰯漁と干鰯、煮干しイリコは代表的なものでした。イリコにされる鰯は巾着網などによって捕られた。 加古・印南では、江戸末期綿作が盛んで、田畑のこやしには、江戸時代から刈草、人糞、ぬか、油かす、干鰯などが用いられた。 宝暦5年(1775)琵琶湖の竹生島、西国30番札所宝厳寺の参拝を終えた一行が、比良八荒の突風に襲われ72名全員が水死。以後巡礼三昧として手厚く供養されている。 秀吉に従い、秋月城ぼ合戦に参加した阿部三郎太夫源ノ正繁は、野添の館に住み、領主としてこの地方をおさめていた。
栄力丸漂流中、米船に救助されサンフランシスコで1年を過ごした17名の日本人たちはセントメリー号で送還されたが、船頭の万蔵は船中で63才の生涯を閉じ、ハワイに埋葬された。 古宮は昔今里村と呼ばれていた。伝説では、豊臣秀吉がこの沖を朝鮮出兵のため通過した時、海が荒れ、しかも暗闇で困っていたところ古宮の住吉神社の常夜燈を目印に無事上陸。秀吉は喜びこの地を「古宮」と命名し神社には朱印13石が与えられたといわれる。 多木製肥所が大正3年(1914)から3年がかりで、工場予定地砂丘の中央に建てた煙突。関西一高い煙突として別府名物となり、播磨灘を航海する船舶にとってよき道しるべとなり「ふりこ」とよばれ親しまれていた。 昭和50年(1975)3月、法人・自治会・有志等の懇志により町役場隣向ヶ池公園内に建立された碑「平和の礎」には280余名の戦没者の戒名、法名が書かれた過去帳がおさめられている。 秋の収穫を感謝しておこなわれる秋祭りでの花形的な存在はなんといっても太鼓の練り出し。地の地方では布団太鼓が多く各地区の氏子の若者達が勇壮なかけ声、はやしとともに宮入する。