寛延3年(1750)「魚類成仏」のために魚問屋中によって建てられた。(姫路藩全域に百姓一揆が起きていたが古宮組ではなかった。) 承応3年(1654)の大干ばつによる被害を憂い、古宮組大庄屋今里伝兵衛重幸が近隣23カ寺の庄屋と協力し開削した用水路。 古宮の薬師堂の薬師瑠璃光如来。本町に現存する仏像の中では最古。(藤原末期作)民衆の病苦を救う誓願を持つ。 菱垣廻船・樽廻船などの千石船に、雇われ船頭や水主として乗りこんだものが、当地域には数多くいた。
昭和16年には現播磨南農協が工場を建設し「阿閇の糸」を製造販売していた。農閑期に揖保に出稼ぎに行った人がかなりいたようです。
河水のほとんどが伏流水となる川ばかりを持つ印南野の開拓には、無数の先人達の血と汗が流されてきた。雨乞いの儀式も行われていた。 濃い緑を保ち、大地にしっかりと根をはる松、優雅で気品に富み、広く親しまれている菊が本町の町花・町木。 「当駅ニテ下車シ、別府手枕松ヨリ始メ尾上ノ鐘、高砂相生松、石ノ宝殿、曽根ノ松ヲ経テ阿弥陀駅ニ出ツルヲ順路トス」土山駅は播州松巡りのスタート地点だった。 旧二子村は江戸時代の大半は、天領と武蔵野国忍藩領に所属。また、明治初期には嬰児小学校が開かれていたといわれる。 旧古宮村4ケ寺のひとつ潮音山松元寺(廃寺)は、郡西国23番札所で正観音を本尊とする寺院で、境内には豊臣秀吉に命名された名松「飯盛松」があった。